文:町田厚成
1970年(昭和45年)4月。日本で最初に軽3輪トラック(マツダK360)を改造したキャンピングカーを製作し、それに乗って東北・北陸旅行を体験した石塚昭逸氏が、今度はフランスのノルマンディーで開かれた世界中のキャンプクラブが集まるオートキャンプの祭典「FICCラリー」(第31回)に出場するために日本を発った。
石塚氏は東京マツダの社員だったが、この年同社を休職。日本オートキャンプ協会の後援と毎日新聞の協力を得て、2年間でユーラシア、ヨーロッパを回るという計画を立て、手甲脚絆の着物姿でマスコミに挨拶をしてから日本を後にした。
最終目的地は、FICCラリーが開かれるノルマンディーだったが、そこに至るまで、ナホトカ、ハバロスク、モスクワというシベリア鉄道の旅を続け、ヘルシンキ、スウェーデン、デンマーク、ドイツを回るという雄大な計画を立てていた。彼は途中ハイデルベルクでアルバイトをしながら旅行資金を補充。ケルンでフォルクスワーゲンを1台買って、その年の8月に、ついにFICC世界大会の開催地であるノルマンディーに到着した。
現地には、日本オートキャンプ協会の岡本専務理事をはじめ、同協会の29人のメンバーが待ち受けていたが、日本人がこのラリーへ参加したことから、日本にもオートキャンプを楽しむクラブがあるということを世界に認知してもらうことになり、日本のFICC加盟が満場の拍手で承認された。
石塚氏と岡本氏は、2人で会場を回りながらヨーロッパ人たちのキャンプ風景やキャンピングカーをつぶさに見学した。そのなかで分かってきたことは、ヨーロッパ型キャンピングカーの構造にはヨーロッパ文化の厚みが反映しているというものだった。
例えば、彼らが使うキャンピングカーでも、多少大型なものになれば、必ず充実したクローゼットが設定されている。彼らはそのクローゼットにスーツ、ジャケット、ドレス、時には礼服のようなものまで収納して旅を続けていた。石塚氏たちは、そこにヨーロッパ人たちのキャンピングカー文化が反映されていることを知った。ヨーロッパのユーザーたちにとって、キャンピングカーはアウトドアを楽しむためだけのものではなく、都会生活を楽しむためのギヤでもあったのだ。
だから彼らは、たとえばパリ近郊のブルゴーニュの森にあるキャンプ場に投宿したときは、夜はスーツに着替え、オペラ座でオペラを見物したり、時には高級レストランでディナーを取るようなことを当たり前のこととして楽しんでいた。ヨーロッパ型キャンピングカーのクローゼットが充実しているのは、そのための衣服をたくさん用意するということを意味していたわけだ。
そういう事情を知るにつれ、石塚氏は、日本のキャンプとキャンピングカーの歴史の浅さを痛感するとともに、日本にオートキャンプとキャンピングカーを普及させることへの義務感にも目覚め、その後に予想されるキャンプ人口の増大とキャンプマーケットの拡大を想像して胸がふるえる思いだったと述懐する。
石塚さんのこの思いが、やがて、今日の「日本RV協会(JRVA)」の設立に結びついていくことになるのだが、それはもう少し先の話となる。
「日本のキャンピングカーの歴史」自動車週報社刊から抜粋
石塚氏が製作したマツダK360ベースのキャンピングカー
石塚昭逸氏
日本オートキャンプ協会の故・岡本専務理事
1971年製のハイマーモーターホーム